翻訳について余光中が教えてくれたこと

中日対照エッセイ3

而立会の中国人会員が中国語で書いたエッセイを、日本人会員が日本語に訳す、という中日コラボの試み。
第4篇は、詩人で作家の余光中の翻訳論についての考察です。


余光中给我带来的翻译启示

管东方

  提起余光中,听说过他的人大都以为他是一名诗人、散文家,实际上他还是一名优秀的翻译家,翻译过《老人与海》《英美现代诗选》等著作。今年,我读了他论述翻译和现代中文的文章,更认为他是优秀的翻译理论家和语言学家。尽管他是学英文的,引用的范例都是英文,但并不妨碍我将他生动的翻译理论应用到中日翻译实践。另外,他还发现现代中文愈发走向繁琐与生硬,对此他不仅指出病症所在,而且还开了药方,为了挽救和恢复简洁而灵活的语文生态可谓不遗余力。本文既是读后感,也是自己在翻译实践中获得的经验体会的总结,更是将来翻译道路上的指引。

  余光中说:“翻译是一种很苦的工作,也是一种很难的艺术。大翻译家都是高明的‘文字的媒婆’,他得具有一种能力,将两种并非一见钟情甚至是冤家的文字,配成情投意合的一对佳偶。”想必有过翻译实践的人都能赞同。

  中文与日文,文化背景差异巨大,语法体系截然不同,文字上尽管都使用汉字,有时竟不免望文生义,比如“检阅”“地道”等词,中日文里“长相”一样,意思上却没有什么相似之处。给这两种文字“说媒”实非易事,既需要充分理解一方的“心意”,还需要准确传达给另一方;若只能做到“只可意会不可言传”,甚至根本“无法意会”,那这门“亲事”恐怕是无望了。“意会”和“言传”分别对应原文的理解和译文的表达,翻译就是要实现这个转换。

  新文化运动的旗手鲁迅等人主张“异化翻译”的策略,即在译文中较多保留原文的风格,甚至不惜采取“忠实不顺”的直译方式,以求“精确”。对此,余光中指出:“忠实而不顺的译文,是否真为忠实,颇成问题。原文如果本来不顺,直译过来仍是不顺,才算忠实。原文如果畅顺无碍,译文却竟不顺,怎么能算忠实?”

  诚然,新文化运动有其特殊的历史背景,鲁迅倡导直译有其时代局限性,彼时文言残存,白话文发展又受到西方文化的影响,译文有些“蹩脚”,无可厚非。但是,白话文运动至今将过百年,白话文取得了长足的进步,形成了成熟完善的语文体系,我们的译文应力求接近中文的语法,尽量避免直接使用原文的词汇,力戒语法和词汇上的直译、硬译、死译。余光中开的处方是:“译者应自问,中国人会这样说吗?如果不这样说,一般不懂外文的中国人,能不能理解?如果两个答案都是否定的,译者就必须另谋出路了。” 譬如日语中的“违和感”“风评被害”“同调压力”等词汇,中文里找不到同义词,如果原封不动照搬直译,恐怕很多读者看不懂。我认为上述道理同样适用于中译日。总而言之,我认为理想的译文是在坚守原文意思的基础上,尽可能符合译文国家的语言风格,日文译成中文不能太“和化”,反之,中文译成日文不能太“华化”。

  余光中认为简洁是中文原有的美德,而我们身边的文字越来越喜欢化简为繁,以拙代巧,并举了大量实例说明:

  (一)“的”字的滥用。“白色的鸭也似有一点烦躁了,有不洁的颜色的都市的河沟里传出它们焦急的叫声。”余光中将其修改为“白鸭也似有一点烦躁了,都市的脏河沟里传出它们焦急的叫声。”后,简洁流畅。

  (二)“关于”“有关”“由于”等介词的滥用。“关于他的资格,你审查过了吗?”“由于秦末天下大乱,所以群雄四起。”分别改为“他的资格,你审查过了吗?”“秦末天下大乱,群雄四起。”后,不但无损文意,反而可使文意利索。

  (三)喜欢把修饰语放在名词之前。“我见到一个长得像你兄弟说话也有点像他的陌生男子”,冗长难懂;如果改为“我见到一个陌生男子,长得像你兄弟,说话也有点像他”,就自然得多。

  由于字数所限,种种毛病无法一一列举,我翻译文章,时刻提醒自己避免这些问题。另外,平时要读优秀的文章,耳濡目染,也可以提高中文水平以抵制不良中文的侵蚀。三潴老师推荐的人民日报就是很好的教材,梁实秋、余光中、钱锺书等人的作品也不错。我学习日语的主要渠道是 NHK新闻,语法严谨,用词考究,内容紧跟时代潮流,边学习边记忆,长此已久,必有收获。

  翻译是一个厚积薄发的过程,真正掌握了外文和译文这两门语言,相互转化就容易得多;翻译还是一门依赖实践的学问,唯有不断动笔方能举一反三,总结提炼出共性的东西,反过来指导翻译实践。

  我想用余光中的一句话作为结束语:“我们不要忘记,为了千万人读来省力,宁可一个人译来费力。”

翻訳について余光中が教えてくれたこと

管東方

 余光中――その名を知る人のほとんどは、彼が詩人や散文家だと思っているが、実は『老人と海』『英米現代詩選』などの著作がある優れた翻訳家でもある。今年、私は翻訳と現代中国語について論じた余光中の文章を読み、彼が優秀な翻訳理論家であり言語学者でもあることを認識した。英語専攻であった余光中が例として引用しているのは全て英文ではあるが、それでもその生き生きとした翻訳理論を中日翻訳の実践に応用することに差し障りはない。また、彼は現代中国語が次第にくどくてぎこちない表現に変化してきていることに気づき、このことに対して問題を指摘するだけではなく、処方箋も提示している。簡潔で柔軟な言葉のありようを取り戻すために全力を尽くしているといえるだろう。本文は読後の感想であると同時に自分自身が翻訳の実践の中で得た経験のまとめでもあり、さらに今後の翻訳の道の手引きでもある。

 「翻訳は苦しい作業であり、難しい芸術でもある。翻訳の大家はいずれも優れた『言葉の仲人』である。決して相性が良くない、ひどい場合は仇どうしのような二種類の言葉を意気投合させて似合いのカップルにしたてる能力が必要なのだ」余光中のこの言葉には実際に翻訳をやったことがある人ならば、きっと誰もが賛同できるであろう。

 中国語と日本語は文化の背景が大きく異なり、文法の体系にははっきりとした違いがある。文字はどちらも漢字を使用するが、字面だけを見ると意味を間違うことがある。例えば“検閲”〔中国語の引用はコーテーションでくくり、文字のみ日本の字体に変更する。以下同じ〕や“地道”などは「顔」が同じでも意味が全く異なっている。この二つの言語の「仲人」をするのは生易しいことではない。一方の言語の「思惑」を十分に理解するとともに、もう一つの言語へ正確に伝える必要がある。もし、「理解できるが伝達できない」もしくは「理解することさえできない」のであれば、この「縁談」に望みはないだろう。「理解すること」と「言葉で伝達すること」はそれぞれ原文の理解と訳文の表現に対応しており、翻訳とはつまりこの変換を実現することなのである。

 新文化運動の旗手、魯迅らが主張する“異化翻訳”の戦略は、訳文中に原文の特徴を比較的多く残し、場合によっては「忠実だがこなれていない」直訳方式を採用することさえいとわず、それによって正確さを追求しようというものだ。この事について余光中は次のように指摘している。

 忠実だがこなれていない訳文が本当に忠実な訳文なのかどうか、かなり問題だ。原文がこなれていなくて直訳した文もやはりこなれていない。それならば原文に忠実だといえる。原文がなめらかでよどみがないのに訳文がこなれていなければ、それは原文に忠実だといえるだろうか。

 もちろん、新文化運動には特殊な歴史的背景があり、魯迅が直訳を唱導したのにはその時代だからこそという事情がある。まだ文語文が残り、口語文の発展にも西洋文化が影響を及ぼしていた当時なら、訳文が多少「粗悪」だったとしてもそれを無下に非難することはできない。だが、白話運動が始まってからもうすぐ百年が経とうとしている現在では、口語文も大きく進歩し、成熟した言語体系として完成している。我々の訳文はできるだけ中国語の語法に近づけるように努め、原文の単語をそのまま使用することを避け、語法と語彙において直訳、硬い訳、逐語訳にならないようにしなければならない。余光中の処方箋は翻訳者が次のように自分に問いかけることである。「中国人だったら、そんな風にいうだろうか。いわないなら、外国語の分からない中国人が普通、理解できるだろうか。もし、どちらの答えもNOであれば、訳者は別の訳を探す必要がある」

 例えば、日本語の「違和感」、「風評被害」、「同調圧力」等の語彙は中国語には同義語がない。もし、元の言葉のまま直訳すれば、読者の多くは意味を理解できないであろう。上述のようなことは中文日訳にも当てはまる。つまり、原文の意味をしっかり守った上で、できるだけ翻訳後の言語の特徴にかなっているのが理想的な翻訳で、日本語の中国語訳が「和風」でありすぎても、逆に中国語の日本語訳が「中国風」過ぎても良くないと私は考える。

 「簡潔さは本来、中国語がもつ美徳であるが、我々の身の周りの言葉はますます簡潔さより複雑さが嗜好されるようになり、巧みさが拙さに取って代わられようとしている」余光中はこのように述べ、多くの実例を挙げて説明している。

 (一)“的”の濫用。
“白色的鸭也似有一点烦躁了,有不洁的颜色的都市的河沟里传出它们焦急的叫声。”
余光中はこれを“白鸭也似有一点烦躁了,都市的脏河沟里传出它们焦急的叫声。”と変えて簡潔で滑らかな文章にした。

 (二)“有关”,“由于”などの介詞の濫用。
“关于他的资格,你审查过了吗?”
“由于秦末天下大乱,所以群雄四起。”

を、それぞれ“他的资格,你审查过了吗?”“秦末天下大乱,群雄四起。”に変えることによって、文章を損なうことなく、かえって文意がはっきりする。

 (三)修飾語を名詞の前に置くことの弊害。
“我见到一个长得像你兄弟说话也有点像他的陌生男子。”
は冗長でわかりにくい。
“我见到一个陌生男子,长得像你兄弟,说话也有点像他。”に変えた方がずっと自然である。

 字数に限りがあるので、数々の悪い例を全て挙げるわけにはいかないが、私は翻訳する時に常にこうした点には気をつけている。また、日頃から優れた文章を読み、感覚を磨くことによって中国語のレベルを高め、粗悪な中国語に染まることを予防できる。三潴理事長推薦の人民日報はとても良い教材であり、梁実秋、余光中、銭鐘書等の作品もまた申し分ない。私自身はNHKニュースを日本語学習の主なソースとしている。語法がしっかりしていて、単語の使い方も研究されており、最新のホットな話題を提供してくれる。学習しながら記憶することで、長く続ければきっと成果があがるに違いない。

 翻訳は蓄積したものを徐々に発揮するプロセスであり、外国語と翻訳後の言語の両方の言葉を本当にマスターしたら、それらを相互に変換することはずっと容易になる。翻訳はまた、実践が重要な学問でもある。翻訳実践を繰り返すことによってのみ、反射的にアイデアが思い浮かぶようになり、それを総合して普遍性のある理論に練り上げることができるようになる。その理論は翻って、翻訳実践の啓発にもなる。

 最後に余光中の言葉で締めくくりたい。「一人の翻訳者が苦労を厭わなければ、千人万人の読者が読み易くなるということを忘れてはならない」

(笠原寛史 訳)
(杉山由梨 チェック)

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