台湾と台湾のことば事情(2)

中日対照エッセイ6

而立会の中国人会員が中国語で書いたエッセイを、日本人会員が日本語に訳す、という中日コラボの試み。
興味深い台湾のことば事情について、その2です。


台湾和台湾的语言故事

郑 悠哉

第二部 台湾的族群与语言

  台湾的人口中汉族占95%,其内容为闽南人70%、客家人15%、外省人10%,新兴族群的新住民约3%,而原住民却仅占2%。

  台湾人的沟通语言有国语、台语、客家话、原住民族语和日语、新住民的语言等。国语就是北京官话或是所谓的台湾华语。说到台语,很多日本人到台湾谈生意时常会被台语考倒。国语和台语的差异颇大,不同于日本的方言与标准日语的差异。在日本学习的“汉语“几乎是不管用的。

  说客家话的族群大多是从广东省沿岸移民而来,居住地分布于桃园、新竹、苗栗和高雄美浓。小学和高中时的同学有几位是客家人,平常大家都讲国语,沟通上完全没有问题。但是同学和家人的对话几乎百分之百是客家话,我完全不能理解、会让你有种是局外人的感觉。而居住于山区的原住民则是说部族的语言,这和中文语系的台语和客家话大相径庭、截然有异,完全是别于中文的南岛语系。

  日治后期实施“皇民化运动”推行「国语家庭」。学校教育以日语为国语的政策。所以年长一辈有上过几年学校的人几乎都会说日语。台语中也融有许多的日语词汇。例如「欧吉桑(日文ojisan)、即叔叔、伯伯之意」、「欧巴桑(日文obasan)、即伯母、阿姨之意」、「一级棒(日文ichiban)、即最好或是第一名之意」等。

  台湾各地有所谓的眷村,其居民是战后来自中国大陆各地的军人和眷属及逃台难民。基本上使用的语言是北京官话,但是都带有浓郁的家乡口音,有时也很难理解像是在猜谜。讲方言者就真的不能解了。眷村彷佛是中国大陆的小缩图。

  新住民主要是指来自东南亚的移工和外籍配偶(含中国大陆)等。1991年政府开放引进外劳,有许多非汉族的新住民入住台湾。大部分的新住民不止在语言上,在文化、宗教上也都与台湾的主流文化相异,台湾国内面临新的文化冲击與融合。

  以下介绍几个亲身经历。记得小时候有一次去原住民居住的观光地游览时,讲国语、台语都无法沟通,犹如鸡同鸭讲。但是一讲日语就谈开了。很是奇妙的感觉。这足以说明日语是当年族际间的公用语。战后国语逐次的取代了日语。有一次和母亲(日本人)搭乘自强号北上时,坐在对面的一位老婆婆是讲台语和日语的闽南人,她隔壁的中年妇女是讲客家话和国语的客家人,她们二位之间没有共通的语言,每每欲言又止。我和母亲只好扮起翻译的角色这才成立对话。用的就是日语和国语。都是台湾人却沟通不了,很不可思议吧!

  提及眷村让我想起小学的校长毛善才先生。他来自四川省,年纪一把,说的一口川音很重的国语,每天的朝会要很仔细的倾听并且发挥最大的想象力去揣测校长演讲的内容。他总把「中华民国」说成「中华民gui3(鬼)」、「国民」也都被说成「鬼民」煞是可怕。

  有一天放学时刻忽然雷雨交加乌云密布,同样也是外省籍的训导主任广播说「各位同学,即将下雷雨,今天不排路队,请自行放学」也都变成「各位“捅靴(tong3xue1)”,请自行放“朽(xiu3)”」,大家都苦笑不得。过了这么多年依然是令人难忘的回忆。

  不过这在当年算是很普遍的事。为了安排从中国逃难至台湾的外省籍人士们工作,军公教人员几乎都是外省籍的。还有为了普及北京官话为中华民国国语的政策,国语广泛使用于媒体及公共场所,并在校园里禁止使用其它非官话语言(包含原住民语言),这从1949年至1987年解除《台湾省戒严令》之前,一直存在于台湾。禁止台语成为推广国语政策的一环。在校园里说台语会被老师记警告或是罚钱甚至用夹子夹嘴巴。这根本就是体罚,不可理喻。记得小学二年级的时候,班上有些调皮的男同学明知故犯,硬是要说台语。为了杀鸡儆猴,老师说到做到,吓死我们这群既无辜又听话的小学生。渐渐的在学校听、讲台语的机会越来越少,胆小的我自然也不敢在学校说台语。上了国中、说是男女授受不亲,就分男女班,女生班上没人敢说台语,说台语的机会只限于跟奶奶还有左右邻居的三姑六婆们。看台语的午间连续剧、歌仔戏或是布袋戏也是不忘台语的一个管道。但我的台语能力渐渐式微,让人恨得牙痒痒。政府的「同化政策」还真的「奏效」。

  上了高中一样是分男女班,但是有社团活动,这是不分男女的。我加入童军社,社团里的男童军大多是说台语,难道他们不怕被罚吗?很久没有听到同年代的人说台语很是新鲜。高中有军事课,担任的教官是军人,校规除了训导主任以外也是教官的管理范畴。讲台语一般是会受惩罚的。但80年代后期的校园,台语的地位有些抬头,除政策趋向缓和语言的统制以外还有南台湾的风纪影响,再加上自由的校风,讲台语竟然不会被惩罚。在学长以及童军伙伴们耳濡目染中又重新拾回了零星的台语记忆。在学校说台语,毫无忌惮!来日本念大学时,在日本的台湾留学生讲台语的人口不少,我也跟着讲。虽然还不太能畅所欲言但是也能说上6、7成。然而,经历数十年来的国语政策,现代的台湾年轻人会说一口流利台语的人越来越少了。

  解严后,历经政党交替、政策的改变,台湾社会的自我认同提升,重新评价台湾的人文地理意识抬高。从2001年起,政府有鉴于台语和其他劣势族群等的语言与文化衰落,在小学教育课程里安排“乡土教学课程”来做传承。从2018年起亦开始新住民的“母语教育”课程。政府甚或提供奖学金让学生利用寒暑假到外籍祖父母家及当地的学校学习父母的语言、文化。为保障各个族群的利益,在公共场合有义务要使用各族群的语言,因此电视媒体等也开始积极使用各族群的语言。如捷运、台湾高速铁路等的车内广播也依国语、台语、客家话及英语的顺序播放。台湾东部的原住民居住地的车内广播还使用原住民的语言播放。这是我80年代居住在台湾的当时万万想不到的事。进入21世纪,台湾的多元化社会又奔向另一个纪元。

台湾と台湾のことば事情

鄭 悠哉

第2部 台湾の諸民族および諸言語

 台湾の総人口の95%は漢民族です。そのうち、閩南人(福建省南部の出身者)が70%、客家人(清朝統治時代に広東省東部から移住した移民の末裔)が15%、外省人(国共内戦後に大陸から台湾に移住した住民)が10%、新興グループと呼ばれる新住民(台湾人との結婚などの理由で海外から台湾に移り住んだ住民)が約3%、原住民がわずか2%という割合になっています。

 台湾の人々が使っている言語には、「国語」や、台湾語、客家語、原住民の諸言語、日本語、新住民の諸言語などがあります。ここで言う「国語」というのは、いわゆる台湾華語(北京語、公用語)のことです。台湾語については、台湾で働く多くの日本人は、この台湾語に苦労させられます。それは、日本の標準語と方言の差に比べて、台湾華語と台湾語の差異があまりにも大きいからです。そのため、日本で勉強してきた中国語は、台湾で役に立たないことが多々あります。

 客家語を話すのは、ほとんど広東省の沿岸部から移住してきた人々であり、彼らは、桃園や新竹、苗栗、高雄市美濃区などに住んでいます。小学校や高校時代の同級生に、客家人が何人かいました。日頃、私たちは台湾華語でやりとりして、何の支障もありませんでした。しかし、彼らが家族と話すのはほぼ100%客家語で、私には話の内容が全然分からず、疎外感を感じました。山地に住む原住民が話す言語は、中国語系統である台湾語や客家語とはかけ離れた、全く別系統のオーストロネシア語族の言語です。

 日本植民地時代の末期、皇民化教育が実施され、「国語常用家庭制度(注3)」が推進されました。学校では、日本語を国語として授業を行いました。そのため、日本時代にある程度の年数学校に通ったことのある高齢者は、ほとんど日本語を話すことできます。また、台湾語にも、多くの日本語が取り入れられました。例えば、年上の男性を「欧吉桑(オウジサン=おじさん)」、年上の女性を「欧巴桑(オウバサン=おばさん)」、最高の状態や一番目を「一級棒(イジバン=いちばん)」と言うのです。

 台湾の各地に「眷村(けんそん)」があります。そこに住んでいるのは、戦後、中国大陸からやってきた各地の軍人やその家族、そして大陸から逃げてきた人たちです。彼らが話しているのは、基本的に中国語ですが、出身地の訛りが強くてわかりづらく、謎かけをされているようでした。さらに、方言で話す人の言っていることに至ってはもっと理解できなくて、お手上げです。眷村はまるで中国大陸の縮図のようですね。

 新住民というのは、主として東南アジアや中国大陸などから労働や台湾人との婚姻のためなどで台湾に移り住んだ人々のことを指します。1991年、政府は外国人労働者の受け入れを始め、それによって、数多くの、漢民族でない人々が台湾に定住するようになりました。新住民の大半は、言語の面のみならず、文化や宗教の面においても、台湾の主流と異なるため、台湾の社会は、新たな文化の衝突と融合に直面しています。

 これから実際に経験したいくつかのエピソードをご紹介します。子どもの頃、原住民が住んでいる観光地に遊びに行ったことがあります。そこでは、中国語も台湾語も全く通じませんでした。しかし、日本語で話してみると、話に花が咲いていました。不思議に感じましたが、かつて、日本語が民族間の共通語だったということの証と言えるでしょう。戦後では、原住民の間でも次第に日本語より台湾華語が優勢になりました。もう一つの出来事ですが、日本人である母と自強号という特急列車で台北へ行った時、向かい側に二人の女性が座っていました。一人は台湾語と日本語を話す閩南人のお婆さんで、もう一人の中年女性は客家語と台湾華語を話す客家人でした。共通の言葉がないため、互いに話そうとしても黙ったまま座っていたお二人。それで、母と私は、日本語と台湾華語で通訳してあげて、やっと会話を成立させました。同じ台湾人同士なのに言葉が通じないというのは、不思議なことでしょう。

 眷村といえば、小学校の校長であった毛善才先生のことを思い出します。年を取った毛先生は、四川省出身で、四川訛りが強い北京語を話していました。毎朝の朝礼で先生の言葉を理解するには、できる限りの想像力を発揮して内容を推測しなければならなかったものです。たとえば、先生の「国(Guo2)」の発音は「鬼(Gui3)」に聞こえました。すると「中華民国」も「国民」も、「中華民鬼」と「鬼民」に化けてしまい、なんて恐ろしいことでしょう。

 校長だけでなく、地方出身の外省人の生徒指導主任にも同じようなエピソードがあります。その日は下校時間になるや否や急に激しい雷雨に見舞われ、一天にわかにかき曇ったとき、この先生が、「生徒のみなさん、もうすぐ雷雨が来ますので、今日は下校班で整列せずに各自家に帰りましょう」といった趣旨の放送をしたのですが、先生の発音は、「生徒」を表す「同学(tong2xue2)」が「靴に穴を開ける」という意味の「捅靴(tong3xue1)」になり、「下校」を表す「放学(fang4xue2)」が「朽ちるのをほおっておく」という意味の「放朽(fang4xiu3)」の発音になっていました。つまり「各位同学(生徒の皆さん)、請自行放学(各自で帰りましょう)」が「皆の衆、靴に穴を開けよう!各自靴が朽ちるのに任せましょう」に聞こえてしまったのです。生徒たちは笑いをかみ殺すのに必死でした。これらの先生たちのことは、今でも忘れられません。

 しかし、このようなことはこの時代において珍しいことではありませんでした。その当時、政府は中国大陸から逃れて来た多くの外省人に就職先を用意する必要があり、その結果、公職である軍人や公務員、そして教師の大半を大陸出身の人が占めていたからです。1949年から「台湾省戒厳令」が解除された1987年まで、台湾では北京語を共通語とするという政策を普及させるために、マスコミや公共場所において北京語が幅広く使われており、また、学校では、北京語以外の言語の使用は禁止されていました(原住民の言語もしかり)。台湾語の使用を禁止するのも、北京語を普及させるための政策の一環でした。もし、学校で台湾語を話していたら、先生から注意や罰金を科せられることがあり、さらに洗濯バサミで口を閉じるような、とんでもない体罰まで与えられることさえありました。小学校2年生の時、罰せられるのを知りながらあえて台湾語を話すわんぱくな男の子がクラスに何人もいました。先生は、見せしめとして、ひどい目にあわせました。それで、無垢な小学生だった私たちは衝撃を受け、学校では、台湾語を耳にして、そして話す機会が次第に少なくなりました。臆病者の私も体罰が怖いと思って、話しませんでした。中学校では、男子と女子が直に接触してはならないという方針のもとで、「男女別学」が実施されていました。女子クラスの生徒は台湾語を敢えて話す人はいませんでした。台湾語を使う機会は祖母や近所のおばさんと話す時だけでした。台湾語を忘れないように、台湾語の昼ドラや、台湾オペラの「歌仔戯(ゴアヒ)」、台湾語の人形劇「布袋戯(ポーテーヒ)」を見るのも一つの方法でした。ただし、悔しいことに、私の台湾語のレベルは下がる一方でした。政府の「同化政策」が、確かに「効果てきめん」だったわけです。

 高校でも男女は別クラスでしたが、クラブ活動は一緒でした。私はスカウトクラブ(注4)に入りました。クラブのボーイスカウトの大多数は台湾語を話しており、罰を受けるのが怖くないのかと不思議に思いました。しかし、長い間同世代の人が台湾語を話すのを聞いていなかったのでとても新鮮な気持ちになりました。高校には、軍事訓練の授業があり、担当する教員は軍人です。軍事教官は生徒指導主任が行う校則管理等の業務にも携わっていました。学校で台湾語を話した場合、校則違反として処罰の対象になります。しかし、80年代後半になると学校での台湾語の地位も少し向上しました。政策の変更で言語統制が緩和したことに加えて、私の住んでいた台湾南部の気風もあったと思います。そして自由な校風も相まって、台湾語を話しても罰を受けることはなくなりました。先輩やスカウトの仲間たちが台湾語で話すのを聞いて、私は台湾語を少しずつ取り戻し、忘れかけていた台湾語の語感も徐々に思い出していきました。学校でも遠慮なく、思う存分に台湾語を話すようになりました。大学進学のために来日すると、台湾語で話す台湾人の留学生が多く、私も一緒になって話していました。言いたいことをすべて言えなかったものの、6、7割程度は話すことができました。しかしながら、台湾では、数十年にわたる「国語政策」により、台湾語を流暢に話すことができる若者が少なくなっていました。

 戒厳令が解除されて以降、台湾は政党の交代や政策の変更を経て、台湾社会のアイデンティティーが向上し、台湾の文化・地理を再評価するという意識が高まってきました。2001年より、政府は台湾語やその他の少数言語と文化の継承のために「郷土言語教育」を小学校のカリキュラムに導入しています。2018年からは新住民の母語教育も組み入れられました。生徒たちが冬休みや夏休みを利用して、台湾以外に暮らす祖父母の家や現地の学校を訪れて父母の言語や文化を学ぶ活動を奨励するために、政府は奨学金を提供しています。台湾国内において、様々なエスニックグループの利益を保障するため、公共の場においてエスニックグループの言語の使用が義務付けられ、テレビなどのメディアで積極的に台湾華語以外の言語を使用するようになりました。地下鉄、高速鉄道などでも、台湾華語、台湾語、客家語、そして英語の順に車内アナウンスが流れています。台湾東部の原住民居住地域では、原住民諸語による車内アナウンスも行われています。これは、私が台湾に住んでいた1980年代頃には想像もできなかったことです。21世紀に入り、台湾の多文化社会は新たな段階に入りました。


注 3:日本の植民地において、日本語を「国語」として普及させるために昭和12年(1937年)に設けられた制度です。日本語を常用している家庭は、審査に通ると「国語常用家庭」という標識を家の前に掲げて、様々な特権を与えられました。
注4:台湾ではボーイスカウトもガールスカウトも「童軍(スカウト)と呼びます。なので、ここでは「童軍社」を「スカウトクラブ」と呼びます。在籍していた高校では、ボーイスカウトとガールスカウトは一緒に活動していました。

(虞菁菁 訳 安場淳 チェック)

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