四月の声(3)

中日対照エッセイ

「四月の声」の最終回です。


“四月之声” 三

朝子

  终于,根据各个小区的感染情况,划定了“封控区”,“管控区”以及“防范区”。14天之内出现阳性病例的小区被认定为“封控区”,足不出户。7天以内未有病例则降级为“管控区”,可走出家门但不可离开小区。14天之内未有阳性病例则可成为“防范区”,每一户可派出一人在规定的时间内前往周围卖场进行采购。当然,如果出现了一例确诊病例,则立刻升级成“封控区”。我的小区则被封到了解封前的最后一天,虽不能离开小区,但最起码安然无“阳”。在封控期间,孩子在线上与幼儿园老师们互动,参加了线上举行的幼升小考试,拿到了心仪学校的录取通知,也参加了史无前例的线上幼儿园毕业典礼。

  冬去夏来,等到解封的那一天,已经是初夏了。2022年的春天就这样成了一块空白,这一届的毕业生们,再见已是毕业时。作为毕业生的家长,我满心遗憾。本以为孩子们可以拥有一个完整的幼儿园回忆,可以欢喜地在台下观摩幼儿园的毕业典礼,他们可以和老师同学好好地告别然后各奔前程,为幼儿园生活画下圆满句号。然而这一切情感在疫情面前是苍白无力的,也是无关紧要的。相比因为疫情防控而失去更多的人们,这些遗憾算不了什么。或许正因为遗憾,才让我们和孩子们懂得了珍惜,珍惜当下。这,大概是唯一的安慰了。

  解封之后,一夜之间,大街小巷出现了无数小亭子—核酸采样亭。去哪里都需要核酸报告,而且必须是从采样时间开始计算的72小时之内–超过了72小时,将寸步难行。扫描任何地方入口处的二维码,名曰“场所码”,便可显示最近的核酸采样时间和结果。打开个人的健康码,根据情况会显示三种颜色。只有“绿码”加72小时之内的核酸阴性证明方可出入自由,7天内没有核酸记录将显示“黄码”,显示“红码”则立刻被管控。人们笑称,我们是“新能源”人(指每隔一定时间都要前往指定地点进行核酸检测,否则将无法行动的人类),保质期只有72小时。更有甚者,工作单位需要48小时之内的核酸记录,这样一来,为了使核酸有效期不中断,必须每天都进行核酸检测。“豆腐都有5天的保质期,而我们只有72小时”。

  为了生活,人们疲于奔命,还必须时时刻刻检查核酸有效期,不是做核酸,便是在去做核酸的路上。许多餐饮企业或是生活场所,都悄然关闭。商场里冷冷清清,路上的人们带着口罩,看不清表情,核酸点外大排长龙,麻木地接受着“捅嗓子眼”。学校和培训机构从3月起就关闭,孩子们呆在家里,失去了和同伴们交流的机会。还有许多家庭因为疫情骨肉分离,我家也是其中之一,疫情以来持有中国签证的外国人无法入境,孩子和父亲分离数年。
 
  我们的生活被新冠病毒永久地改变了。本以为的“不可能”,都成为了“可能”;没有“做不到”,只有“想不到”。当我们的生命里只剩下了“抗疫”,不禁想一想生活的意义究竟在哪里?我们都想问,“这一切究竟何时结束?”然而回答你的仍然是黑夜中注视着你的核酸亭,仍然是“本区域接下来的三天将进行两次大筛(查)”的通知,仍然是满大街的“疫苗接种”的标语。

  记得2020年疫情爆发的初期,正好在上海探亲的我,信心满满地带着孩子选择继续留在上海,暂时不返美。原本每年会去一两次日本旅游,中美之间来回飞,每一边都各自居住半年,通行无阻。我热爱着自己的家乡,每次飞机降落在浦东机场,都欢喜不已。即使是疫情初爆,对病毒一概未知,也没有失去自由,生活井然有序,仍可以做好防护,出门采购,一直到恢复正常。而对比之下,如今的抗疫,让珍珠蒙尘,明亮的东方明珠,变得黯然无光。如今的我们看着浦江的美丽夜景,心无波澜。是因为信任她却被一次次背叛而失望,还是从严苛的防疫政策里看不到希望而让我们心灰意冷。她还会是那个让我们这些海外游子心怀向往,无时无刻不想回到她身边的城市吗?我想这个答案,只能在未来的岁月里慢慢寻找了。或许有一天,我也可以像老一辈描述那段动乱岁月那样,向下一代讲述这段抗疫往事。
 
  我们都是局中人。当美国的家人们有些感染过,有些没有感染,他们仍然继续着正常的生活,而我们还“粘着”在2020年初,不断重复着相似的轮回。我不得不问自己,带孩子回国生活的决定究竟是对是错。心疼他小小年纪,也懂得了“核酸”,“阳性”,“72小时”,懂事地知道,因为没有72小时核酸报告所以不能进乐高店买玩具,而平静地在店外等我。他越是懂事,我越后悔把他带进了这个“局”里。内心的声音告诉我,“逃离”,“逃离”,“润(注3)”,可是上海的父母祖辈,我无法置之不顾。这大概是居住在海外却在国内有亲人的华人华侨们都面临的两难问题了。归国路漫漫,除了回国的天价机票,还有14天的隔离,让回国难上加难,这让我更不敢轻易离开国内了。“这一去,不知何时再回?”

  无语问苍天。

  谨以此文,纪念封城期间的60个日日夜夜。

 
注3:即英语“run”的谐音,网络用语,意为“为了逃离目前的国内困境而移民”。

「四月の声」 三

 そしてようやく、各小区の感染状況に基づいて、上海は「封控区」「管控区」「防範区」の三つに区分されることとなった。過去14日以内に陽性者が出た小区は「封控区」とされ、部屋からは出られない。もし7日間連続で陽性者が出なければ「管控区」に格下げされ、部屋からは出られるようになるが、小区の外には出られない。さらに14日間陽性者が出なければ「防範区」となり、各世帯当り一人だけ決められた時間内に小区の外に出ることを許され周辺の店で買い物もできる。ただし当然ながらもし一人でも陽性者が出ようものなら、直ちに「封控区」に逆戻りしてしまう。

 私の住む小区は上海ロックダウン解除の前日まで封鎖されていて小区の外には出られなかったものの、少なくとも家族から陽性者の発生はなかった。封鎖期間中、子供はオンラインで幼稚園の先生とやり取りしながら、小学校へ上がる試験もオンラインで受験し、志望校の合格通知を手にすることができた。幼稚園のオンライン卒園式もこれまで経験したことの無かったものだった。

 季節は過ぎて、ロックダウンが解除されたその日はすでに初夏となっていた。2022年の春はぽっかりと穴があいてしまい、今春の卒園生にとっては再会の時がまさに卒業と重なってしまった。卒園生を持つ親として本当に残念だった。本来なら子供たちは幼稚園での沢山の思い出を胸に抱き、親は子供の卒園式に参加する喜びを味わいながら先生や友達とお別れして新たなステップへ向けて、幼稚園生活に終止符を打つのが普通である。しかしながらコロナ禍の下ではそうした感情はまったく無力であり、何ら意味を持たない。コロナ対策の影響でもっと多くのものを失った人たちからしてみれば、卒園式の中止など大したことではないだろう。もしかすると我々のような親や子供たちは今回とても残念な想いをしたからこそ、本当に大切なことが何なのか分かったのかもしれない。 それが私たちにとって唯一の慰めである。

 ロックダウン解除後、一夜にしてあっという間に街中いたるところに「PCR検査ボックス」なるものが設置された。私たちはどこに行くにも必ずPCR検査証明が必要となり、更にその有効期限は72時間以内(検査した時刻から起算)。もし72時間を超えるとたちまち行動が制限されてしまう。どこに行くにも入口でQRコードをスキャンしなければならず、このいわゆる「場所コード」によって、直近のPCR検査日時と結果が表示されるようになった。個人毎の健康コードは状況に応じて三つの色に分かれる。健康コードが「グリーン」でかつ72時間以内のPCR陰性証明があれば、どこでも自由に出入り出来る。7日以内のPCR検査記録が無いと健康コードは「イエロー」に変わり、もし「レッド」になれば即隔離である。冗談でよく言われるのは、私たちは「新エネルギー」人(決まった時間ごとに指定場所でPCR検査を受けなければすぐに動けなくなってしまう)であり、有効期限は72時間しかない。更に人によっては勤務先から48時間以内のPCR証明を求められることもあり、その場合にはPCR検査の有効期間を切らさないよう毎日検査しなければならない。「豆腐の賞味期限は五日間あるが、我々はたったの72時間である」

 人々は生活のための奔走に疲れ、また、常にPCR検査の有効期限を気にしなければならず、検査、検査に明け暮れる。多くの飲食店や娯楽施設がひっそりと閉鎖してしまう 。スーパーは 閑散とし、道行く人は皆マスクをつけていて表情も見えず、PCR検査所には長蛇の列ができ、人々は無表情のまま「喉の奥に検査用綿棒を突っ込まれ」る。学校や塾は3月以降クローズされていて、子供たちは家にこもり友達と交流する機会も失われた。また、多くの家庭ではコロナによって家族同士でさえも引き裂かれ、私たちもその一人であった。コロナ以降、外国人は中国ビザがあっても入国できなくなったため、私の子供とその父親である夫は何年も離れ離れのままである。

 我々の生活は新型コロナウィルスによって大きく変わってしまった。もともと「起こり得ない」はずだったことはすべて「起こり得る」ようになり、役人たちは「思いつかないこと」以外は「出来ないこと」が無くなった。我々の人生はひたすら「打倒コロナ」一色となり、生きていくことの意味はいったいどこにあるのだろうか、とつい考えてしまう。私たち誰もが教えてほしいのは、「今の状態は一体いつになったら終わるのか?」ということだが、暗い夜の路上であなたを見つめているPCR検査所がその答えである。今なお、「本地区は明日から三日間に2回の大規模PCR検査を実施する」という当局からの通知がたびたび出され、街中には依然として「ワクチン接種を」のスローガンが至る所に掲げられている。

 コロナ感染が急速に拡大した2020年初め、私は上海に里帰りし、子供とともにしばらく上海に残ってアメリカには戻らないことに決めた。以前は年に1~2回は日本に旅行に行き、半年ごとに中国とアメリカを行き来する生活で、何も支障はなかった。私は自分の故郷を心から愛していて、飛行機が浦東空港に降り立つたびに喜びを隠しきれなかった。コロナ感染拡大初期はウィルスに対する知識こそあまりなかったが、自由は失われておらず、いつも通りの生活で、感染予防対策さえしていれば普通に買い物に行くことができ、そのまま通常の暮らしに戻った。その頃と比べて今のコロナ対策は、まさに輝く真珠を曇らせ、明るく照らしていた東方明珠タワーも暗く光を失ってしまった。 今我々は黄浦江の美しい夜景を目にしても心躍らなくなってしまった。信頼するたびにいつも裏切られ失望を繰り返してきたからか、それとも厳しいコロナ政策の中に希望を見出すことは出来ず、心も冷え切ってしまったからだろうか。この都市は私たちのような主に海外で暮らす中国人にとって心の底から愛せる、いつでもその懐に帰りたい場所であり続けるのか。その答えはこれからの人生の中でゆっくりと探していくしかない。いつの日にか、私たちの上の世代がかつての動乱の時代を語るように、私も次の世代にこのコロナ禍で起こったことを話す日が来るかもしれない。

 私たちは皆当事者である。アメリカにいる夫の家族の中にはコロナに感染した者もしていない者もいるが、変わらず普通の生活を続けているのに、私たちは相変わらず2020年初めに「とどまって」いて、同じことを何度も繰り返しているかのようである。私は今でもあの時に子供を連れて帰国する決断をしたことが本当に正しかったのか、自問せずにはいられない。可哀そうに子供は幼くして「PCR検査」、「陽性」、「72時間」などの言葉を覚え、自分は72時間以内のPCR証明がないためレゴショップに入れないとわかっているから、静かに店の外で待っている。子供の物わかりがよいほど、自分は彼をこの「渦中」に連れてきてしまったことへの後悔の念が増していく。私の心の中の声は、「逃げろ」、「逃げろ」、「走れ」(注3)と叫んでいるが、上海の両親や祖父母を見捨てることも出来ない。これはおそらく海外に住んでいて中国に親族がいる中国人や華僑は誰もが直面している難しい問題だと思う。帰国までの道のりは遠く、異常に値上がりしている航空券以外にも、入国後14日間の隔離措置など、帰国はますます困難になっており、軽々に国を離れるのをためらう原因となっている。「一旦出国したら次はいつ戻って来られるだろうか?」

 言葉もなくただ空を見上げるばかりである。

 60日間に及んだロックダウンの日々を振り返り、ここに記録する。

 
注3:原文“潤”。英語の“run”の音をあてた漢字。ネット用語で、「現在の国内の困難な状態から逃れようと移民する」ことを指す。

(翻訳 ゴンチー所長)

(チェック 笠原寛史)

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