台湾と台湾のことば事情(1)

中日対照エッセイ5

而立会の中国人会員が中国語で書いたエッセイを、日本人会員が日本語に訳す、という中日コラボの試み。
興味深い台湾のことば事情について、その1です。


台湾和台湾的语言故事

郑 悠哉

第一部 “古早”的台湾

  台湾别名福尔摩沙为美丽岛之意。16世纪初、随着西方国家开启大航海时代,在远东地区也开辟了新的航路。1544年葡萄牙船员在经过东亚海域时,发现远方有个岛屿。岛上崇山峻岭、树木苍翠、甚是美丽,不禁赞叹「Ilha Formosa(福尔摩沙)!」这句话,即“美丽之岛”的意思。从此“福尔摩沙(Formosa)“之名成了台湾的代名词。台湾的地图首次被绘制于世界地图上的也就是这个时期。

  台湾岛最早的居民是谁呢?据说是由东南亚及中国大陆南部沿岸北上移动而来的南岛语族群。他们在台湾岛生活有几千年的历史,比16、17世纪到台湾的汉族、葡萄牙人都早许多,曾经是台湾岛的主体族群。语言、文化、生活习惯等与大洋洲各国、菲律宾、马来西亚、印尼等南岛语族群相似,与汉族截然不同。汉族称之为「原住民」。

  葡萄牙发现台湾后,西班牙人和荷兰人相继统治台湾,直到明末郑成功为了抵抗清朝撤退至台湾打倒荷兰为止。明郑为台湾历史上第一个汉人(闽南系)政权,也是一个事实上独立的政权。但也由于汉族的到来,开启了原住民受难的历史。明郑时期持续三代统治为期仅有23年,1683年明郑降清后由清朝(满族)接收管理台湾将近210多年。明郑之前断断续续到台湾的大陆移民也不少,但由明郑和清朝统治的台湾有更多的移民前来。人口也从22至24万人增加到255万人。移民者中尤以福建省人居多。我郑家家族的第一代开台祖先就是1751年从福建到台湾的。福建省泉州和漳州的移民带闽南话入台湾。此时期可谓是台湾闽南话的巅峰期,不论是白话音或文读音都很发达。诗词古文都可用闽南话来表达。直到甲午战争,1895年战败的清国割让台湾予日本,日治时期推广日语为国语,台湾公用语(闽南话)的地位由日语取而代之。50年间台湾闽南话的文读音几近消逝,只剩下白话音于坊间。一般人已难以台湾闽南话读出诗词或古文,反之、香港在英治时期依然维持粤语的书写阅读等,香港人至今仍能以粤语朗读。

  1945年战败的日本把台湾还给执政的中华民国政府。当时中国国内正处于国共战争的内战状态,执政的国民党带着大批军队与逃台难民撤退至台湾,使得台湾人口由600多万遽增至800多万人,为台湾有史以来规模最大的一次移民活动。由国民党接管台湾,日本人离台,彻底排除日语与台湾闽南话,改用中华民国国语即现代标准汉语(以下称北京官话)为国语。受日语教育的人们茫然,而台语的地位更是每况愈下。一切又得重新开始。国语取代日语成为台湾的公用语至今。

  随着统治者的变迁来自福建省的闽南话,在台湾融入荷兰语、西班牙语、日语、原住民族语、北京官话等的词汇,在台湾独自发展演变为台湾闽南话即台湾话(以下简称台语),许多词汇早已别于福建的家乡话了。

  进入台湾约70多年的国语(北京官话)当然也不例外。国语里融入不少台语、客家话、原住民族语、日语、英语等,在台湾演变为“台湾的国语”。用词、语法、声调、文法、字体等也和中国大陆的“普通话”大有不同。进入21世纪为了与中国大陆的“普通话”做区别,“台湾的国语”对外以“台湾华语”称之。

台湾と台湾のことば事情

鄭 悠哉

第1部 昔の台湾

 台湾は別名フォルモサ(Formosa)と呼ばれており、それはポルトガル語で「美しい」という意味です。16世紀の初め、ヨーロッパ諸国は大航海時代の扉を開き、極東への航路も開拓しました。1544年、ポルトガルの船が東アジアの海域を進んでいた時、遠方に島が見えました。急峻な山々が延々と連なり、木々の緑が目に鮮やかなその島の景色に、船員が「Ilha Formosa!(美しき島)」と、思わず賞賛の声をあげました。その後、フォルモサ(Formosa)という呼び名は台湾の代名詞となりました。また、台湾が初めて世界地図に描き入れられたのも、その頃でした。

 台湾に最初に定住したのは、東南アジアや中国大陸の南部沿岸より北上したオーストロネシア語族系の民族と言われています。台湾の主要民族だった彼らは、16、17世紀に台湾に住み着いた漢民族やポルトガル人よりもはるかに早く台湾島に渡ってきて、数千年にわたって暮らしています。言語や文化、生活習慣などの面において、オセアニア諸国の人々や、フィリピン、マレーシア、インドネシアなどといったオーストロネシア語族系のエスニックグループと似ており、漢民族とは大きく異なります。彼らは、漢民族の人々に「原住民(注1)」と呼ばれています。

 台湾は、ポルトガル人に発見された後、相次いでオランダとスペインの支配下に置かれていました。その支配は、清朝への抵抗の拠点を台湾に置いた鄭成功が、オランダ人を台湾から駆逐するまで続きました。

 明の鄭氏政権は、台湾史上初の漢民族(福建省南部の人々)政権で、事実上独立した政権でした。しかし、漢民族の到来により、原住民の受難の日々も始まりました。3代にわたる鄭氏政権は1683年に清朝に降伏し、わずか23年間で幕を閉じました。その後、清朝(満洲族)は台湾を領土に組み入れ、約210年間にわたって管轄統治していました。鄭氏政権が樹立される前に、断続的に中国大陸から台湾に移り住んだ人は少なくありません。鄭氏政権や清朝になると、移住者は以前より更に多くなりました。台湾の人口も、22~24万人から255万人に増え、移住者の中で最も多かったのが福建人でした。我が鄭家の先祖は、まさしく1751年に福建省から台湾に移住してきました。泉州や漳州出身の福建からの移住者は閩南語(福建省南部の方言)を台湾に持ち込みました。その時期が台湾閩南語の最盛期と言えます。主に話し言葉で使われる発音の「白話音(口語音)」も、主に文章などを読むときに使われる発音の「文読音(文語音)」(注2)も大いに発展し、詩歌も古文も閩南語で表現することができました。しかし、1895年に日清戦争で敗北した清朝は、台湾を日本に割譲しました。日本統治時代に台湾では日本語が閩南語に代わって公用語になりました。その結果、50年間にわたって、台湾閩南語は、文読音が殆ど使用されなくなり、白話音だけが庶民の間に使われてきたのです。現在、台湾閩南語で詩歌や古文を詠むことができる一般人はごくわずかです。一方、香港の人々はイギリスの植民時代にも、依然として広東語での読み書き能力を維持していたので、今でも広東語の文読音で文章を読むことができます。

 1945年に敗戦した日本は中華民国政府に台湾を返還しました。その頃、中国国内において、国共内戦が起こっていました。与党の国民党が大軍や避難民を率いて台湾に撤退しました。それは、台湾史上最大規模の人口流入であり、人口も600万人余りから800万人余りに急増しました。日本人が台湾を離れた後、台湾を接収した国民党当局は、日本語と台湾閩南語を徹底的に排除し、中華民国国語、すなわち北京語を公用語としました。その結果、日本語で教育を受けた人々は茫然自失し、台湾閩南語の地位も下がる一方でした。すべてが振り出しに戻ったのです。北京語が日本語に代わって、今でも台湾の公用語です。

 福建省から伝来した閩南語は、支配者の変遷によりオランダ語やスペイン語、日本語、原住民族語、北京語などの諸言語の語彙を受け入れ、独自の変化を遂げ、台湾閩南語即ち台湾語、台語(以下、「台湾語」と呼ぶ)になりました。台湾語では、すでに発音や使い方が福建方言とだいぶ異なっています。

 70数年間台湾で使われてきた国語としての北京語も当然例外ではありません。台湾で台湾語や客家語、原住民諸語、日本語、英語などの影響を受け、「台湾の国語」に変化を遂げました。語彙や語法、声調、文法、字体などは中国の公用語である「普通話」とだいぶ異なります。21世紀に入り、中国の「普通話」と区別するために「台湾の国語」は対外的に「台湾華語」と呼ぶようになりました。


注1:ここでは台湾の公用語である台湾華語で「初めからそこに住んでいた住民」という意味があって、正式な呼称である「原住民」を用いています。
注2:「文読音・白話音」と「音」で呼び分けるのは、単に話し言葉と書き言葉の違いだけではなく、両者間で一つの漢字でも発音が異なる場合があるためです。

(虞菁菁 訳 安場淳 チェック)

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